東京地方裁判所 昭和36年(ワ)4015号 判決 1963年11月06日
原告 伊沢照子
被告 松永安左衛門
主文
被告は原告に対し、金五七五、〇〇〇円およびこれに対する昭和三六年四月二六日から支払ずみまで年五分の割合による金員を支払え。
訴訟費用は被告の負担とする。
この判決は仮に執行することができる。
事実
一、請求の趣旨および、これに対する答弁
原告訴訟代理人は、「主文第一、二項同旨の判決および仮執行の宣言を求める。」と述べ、被告訴訟代理人は、「原告の請求を棄却する、訴訟費用は原告の負担とする、との判決を求める。」と述べた。
二、請求の原因およびこれに対する答弁
(一) 原告訴訟代理人は、請求原因として、次のとおり述べた。
「原告は被告との間において、昭和三四年一一月五日、次のとおりの契約を締結した。
(1) 原告は被告に対して、被告が版権を有し、その出版を計画中のトウインビー著「歴史の研究」(全二六巻)の邦訳版につき、同年一二月一日から翻訳原稿の編集、下刷校正の労務を提供すること、(但し二、三ケ月は準備期間としその後は概ね一ケ月一巻を完成させる予定)
(2) 被告は原告に対して、右労務提供の報酬として、一ケ月金五〇、〇〇〇円の給料を毎月二五日限り支払うこと。右契約に基き、原告は昭和三四年一二月一日から昭和三五年四月まで所定の労務に服し、被告から右の五ケ月間毎月金五〇、〇〇〇円宛の支払を受けた。しかるに昭和三五年五月以後原告は、所定の労務に服することができなくなつた。それは被告が原告に対して前記編集および校正の業務の対象となるべき原稿と下刷とを交付しなくなつたからである。すなわち被告はかねて前記出版のための印刷の仕事を訴外創造社(責任者松下文子)に請負わせていたところ、昭和三五年二月頃右創造社との間において前払金の支払に関連して紛争を生じたことから、右創造社においては、前記邦訳版第一巻分の下刷を中止するに至つたため、以後被告は原告に対して、右邦訳版下刷を交付することができなくなつたものであり、また原稿をも原告に交付しないようになつた。かゝる被告の責に帰すべき事由により、原告は被告に対する労務提供の債務の履行が不能となつたのであるから、原告は被告に対し、右債務の反対給付たる給料請求権を失わない。
よつて、原告は被告に対して昭和三五年五月一日以降原告が契約を解除した同三六年四月一五日に至る迄、一ケ月金五〇、〇〇〇円の割合による給料合計金五七五、〇〇〇円およびこれに対する最終の弁済期より後である昭和三六年四月二六日から右支払ずみまで年五分の割合による遅延損害金の支払を求めるため本訴におよんだ。」
(二) 被告訴訟代理人は、答弁として、「原告主張事実中原告が被告に対し、「歴史の研究」邦訳版の翻訳原稿の編集下刷校正の仕事をなすことを約し、被告が原告に対してその報酬を支払うことを約したことは認めるがその余の事実は否認する、
原告と被告との契約は雇傭ではなくして、請負であり、原告が邦訳版一巻(約五〇〇頁の予定)分の編集校正を完成する毎被告はこれに対する報酬として、原告に対して一頁金一〇〇円の割合により一巻分に、合計金五〇、〇〇〇円を支払うことを約したものである。もつとも被告は、原告に対して、昭和三四年一二月以降同三五年四月までの五ケ月間、毎月金五〇、〇〇〇円づつの報酬を支払つたことは認めるが、それは予定どおり一ケ月一巻の割合で原告の仕事が進捗しているものと考えたからによるものである。
従つて原告が契約所定の仕事を完成するまでは、被告は、右報酬金を支払う義務がない。
なお原告が、仕事の完成をしないのは被告の責に帰すべき事由によるものであるとのことは否認する。」と述べた。
三、証拠<省略>
理由
一、原告と被告との間で昭和三四年一一月頃被告が出版を計画していたトウインビー著「歴史の研究」(全二六巻)の翻訳につき、原告が被告に対しその原稿の編集、下刷校正の労務を提供し(概ね一ケ月一巻宛完成の予定)被告が原告に対して、その報酬を支払う旨の契約が成立したこと、および右契約に基き昭和三四年一二月から昭和三五年四月までの間、被告は原告に対し一ケ月金五〇、〇〇〇円宛合計金二五〇、〇〇〇円を支払つたことは当事者間に争いがない。そこで以下右被告の支払うべき、また現に支払つた金員が、原告の被告に対する毎月の労務提供に対する報酬(いわゆる給料)又は、原告の前記邦訳版一巻分の仕事の完成に対する報酬(いわゆる請負代金)のいずれとして支払われる約定であつたかの点について判断する。成立につき争いのない乙第一号証の一ないし三、甲第六号証の一、証人深沢正策の証言(第一回)により真正に成立したものと認められる甲第三号証の九および一一によると冒頭認定の被告から原告への金員の支払は昭和三四年一二月は二四日同三五年一月から三月まではその月の二五日、同年四月は二六日に各なされたことが認められ、証人深沢正策(第一回)、同松下文子の各証言、および原告本人尋問(第一、二回)の結果によると、原告は最初の二、三ケ月は準備期間とすることにつき被告の了承を得ていたが、原告が仕事を始めた昭和三四年一二月から二、三ケ月を既に経過した昭和三五年四月末頃までに原告は翻訳原稿の編集の仕事については約二巻分を、そして同下刷校正の仕事に至つては僅かに第一巻の一部を、それぞれ完了しているのみであるが、このような進捗状況であることを被告も十分承知していたこと、そもそも冒頭認定の契約締結の当時当事者間においては、前記邦訳版を一ケ月一巻出版の運びにする予定があつたことは原告の認めるところであるけれどもそれは必ずしも右契約の確定的内容とまではされず本件出版事業が軌道に乗つた段階での、いわば努力目標であるに止まること、および原告は、右契約に基く債務の履行に専念するため、右契約締結後である昭和三四年一一月末日限りで原告の当時の勤務先(月給約金三〇、〇〇〇円)である筑摩書房を辞職しておりかつ被告も亦これを了解していたことがそれぞれ認められる。
以上認定の諸事実と証人深沢正策の証言(第一回)および原告本人尋問の結果(第一回)を総合するときは、被告は原告の労務提供に対する対価すなわちいわゆる給料として(一巻分についての原告の仕事の完成の有無にかかわらず)原告に対し毎月二五日に、金五〇、〇〇〇円を支払うことを約したものであることが認定できる。以上の認定に反する証人松藤秀雄の証言(第一回)被告本人尋問の結果は、上記認定に供した各証拠に照らしたやすく採用できず、他に以上の認定を覆えすに足りる証拠は見当らない。
二、ところが昭和三五年五月から後、原告が所定の労務に従事しなかつたことは、当事者間に争いがないので右不履行が債権者たる被告の責に帰すべき事由によつて生じたものか否かの点につき判断すると、成立に争いのない甲第七号証、乙第七号証、証人深沢正策の証言(第一回)により成立の認められる甲第一号証の一、証人松下文子、同深沢正策(第一回)の各証言ならびに原告本人尋問(第一、二回)の結果によると、かねて被告と前記訴外創造社との間に成立していた前記邦訳版の印刷請負契約に基き、被告が昭和三五年二月下旬までに支払うことを約定していた第一巻印刷用紙代その他としての金二〇〇、〇〇〇円を被告が期日に支払わず、右創造社から被告に対して繰り返しその善処方を求めたにもかかわらず、被告はこれに対してなんら応答することなく、かつ事態収拾策を構じる措置に出なかつたため創造社においては、第一巻下刷を中止するに至り、また原告からも被告に対し、再三右事業の進捗方ならびに、原告に対する善処方を要請したにもかかわらず同様なんらの回答にも接し得なかつたこと、そしてその結果、原告は被告から原稿の続きを受取ることもできず、又下刷を入手することもできなくなつたため、結局原稿の編集、下刷校正の仕事を続行し得なくなつたこと、が認められるのであり、結局これらの事実を綜合して判断すると前記の原被告間の契約に基く原告の労務提供の債務が履行されなかつたのは被告の責に帰すべき事由によるものであると解されるのである。
以上に反して被告が創造社に対し用紙代等を支払わなかつたのは、創造社が校正刷の一部を完了したのみで被告との約定に反する時期において代金を請求し、しかも当初の約定よりは多額の金額を要求したことによるとの趣旨の証人松藤秀雄の証言(第一、二回)は前掲の各証拠に照したやすく信用し難い。
そうとすれば原告はなお被告に対して報酬請求権を失わないと認められるから、昭和三五年五月分から昭和三六年四月一五日まで一ケ月金五〇、〇〇〇円の割合による合計金五七五、〇〇〇円およびこれに対する最後の弁済期の後である昭和三六年四月二六日から支払ずみまで年五分の割合による遅延損害金の支払を求める本訴請求は正当としてこれを認容すべきものである。
三、よつて、訴訟費用の負担につき、民事訴訟法第八九条、仮執行の宣言につき同法第一九六条をそれぞれ適用してて、主文のとおり判決する。
(裁判官 吉岡進)